こんにちは。フィアレス代表の森です。
今日は、どうして私がフィアレスをやっているのか、この会社でどんな世界を作りたいのかを紹介しようと思います!
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「私の幸せは私が決める」学校が嫌いだった学生時代
私は学生時代、特に高校生までは学校がそんなに好きではありませんでした。支配的で勝手な先生ばかりだと感じていたからです。
自分の大好きな合唱に参加しない生徒に冷たい態度をとる音楽の先生とか、自分のクラスが金賞を取れなかったことに怒って次回から金賞そのものを無くしてしまった先生とか、服装チェックで玄関に仁王立ちしている先生とか。
私の場合は、親が教員だったことも大きかったように思います。しつけと教育に熱心だったので、勉強しろ、人として正しくあれとことあるごとに言われましたが、親も人間です。仕事のストレスを家庭にぶつけることも、休日家でだらだらしている・・・ことはほとんどありませんでしたが、こたつで寝ていたり、食器が出しっぱなしになっていることはありました。
だから、教師がなんだと。お前がどれほどのもんなんだと。甚だ疑問でした。そのくせ、世界の心理を全て理解しているかのような態度で説教してくることに、幾度となく腹を立てました。
その中でも、特に疑問に思ったことがあります。それは「勉強しないと幸せになれないぞ」という論調です。いい大学に入って、いい企業に勤めるためには、いま一生懸命勉強しないといけないぞという話ではあるのですが、気になったのは”幸せ”というワードです。
一流企業に入ってお金を稼いで、結婚して子どもを持つことが”幸せ”だとどうして決めるのか。
私は、金銭的に不自由なく暮らしていける代わりに、そのストレスをぶつけられ、毎年ディズニーに行くたびに不機嫌になられることよりも、家で笑いながらテレビを見れた方が幸せである。ひいひい言いながら仕事をする、そんな日々を過ごすことを目指して、辛い勉強をあと何年も続けていくのは、あまりにも地獄ではないか。私が何に幸せを感じるのかは、あなた方教員ではなく、私自身が決めることではないのか。
大学で出会った、志高く熱い先生の卵
そんな私が、ひょんなことから(というかほぼ運命だと思われる流れで)教育学部に入学しました。入学当時は学校の先生になる気はありませんでしたが、日本の教育に反感を持っていた私が教育を学ぶことは、とても意義深いことでした。
特に、2つの点が私にとっては衝撃的で、大きな発見でした。
学習カリキュラムは本当に子どものことを考えて作られていること
当たり前に思うでしょうか。私はかなり意外でした。
もちろん、どうやったら勉強ができるようになるのか、どの順番で学んでいくといいのかを考えられているとは思っていました。私が驚いたのは、それらの教材を通して、人との交流や違う価値観との出会い、豊かな心を育むことで将来の生きる力をつけようと考えられているということでした。
国語のごんぎつねは、世界はルールを守るだけではなく、その裏にそれぞれの人の気持ちとか背景があるんだということを理解してもらう意図があること。
体育のバスケットでは、チームで作戦を立てることの経験の他に、「いまだ!チャンスだ!」と思った時に勇気を出して攻めていく姿勢や体験を積んでもらう意図があること。
理科の実験を通して、わからないことや知りたいことがあった時、いろんな方法を使って試して発見していく楽しさを体験してもらう意図があること。
もちろん、谷川俊太郎のスイミーを、文法的に正しい表現に変えて教科書に載せていたり、目の見えない主人公のお話が差別だとカットされたり、指導要領が10年に1度の改訂でいいのかという話などなど、現行の教育への批判的な視点も勉強したし共感したこともあります。
ただ基本的には、学校教育を通して、自分の心を豊かにしたり、世界への興味を刺激したり、いろんな価値観に出会うことを願って作られていたり、教室で展開しようと工夫している先生がいることを初めて知り、いたく感動しました。
先生を目指す人たちは、ほとんどが熱心で、いい人たちであること
教育学部だったので、周りはほとんど将来先生になることを目指して勉強している人たちでした。その人たちが皆、真摯に子どものことを考えて、いい教育をしようと志高くいるいい人たちだったのです。
先生になりたい人など、子どもをいいように従えて優越感に浸りたいだけの人たちだと思っていたのに。喋る人みんなユニークで、思いやりがありました。どんな先生になりたいのか、熱く語る人も思いを持って学ぶ人もたくさんいました。
教育実習先の先生も、授業に対して熱心に準備をされていました。
あの子はこんな特徴があって、この子の課題はこれでと、ひとりひとりについて考えを持っていたし、その子達に対してどう学んでもらうかを工夫されていました。
思いやりがあって、志があって、子どもや日本の将来のことを考えて先生を始めた人たちが、子どものことを思って作られたカリキュラムの元教育をしているのに、どこかで、何かがおかしくなってしまうんだな。人が悪いのではなく、システムがそうさせちゃうんだな。
大学での4年間で、私はそんなことを思いました。
公教育を支援する企業に就職からの挫折
「なんとかしたい」と漠然と思いつつ漠然と就職活動を始めた私は、これまた運命的に公教育を支援する企業と出会い、入社しました。
ICTの力を使って、先生が本来の仕事(授業の準備や子ども達と触れ合う時間)に時間を割けるようにしようという、まさに学校のシステムそのものにアプローチでき、先生という人を信頼してサポートすることを目指す仕事です。そこで、想定していなかった営業という仕事も与えてもらえ、やりがいを感じながらワクワク仕事をさせてもらいました。
しかし、1年半ほど経った頃から、少しずつ雲行きが怪しくなってきます。
自分がやっていきたいと思っているスピードと、上司が仕事を回してくれるスピードに差があるように感じ、頑張りたいのに頑張れないような、飼い殺されているような感覚にモヤモヤしたり。
一方上司にも上司なりに仕事を回さない理由があるはずです。正確なところは分かりませんが、普通に、私は実力不足ではありました。お客さんからの質問に的確に答えられないし、なんなら打ち合わせでオドオドしてしまうし、丁寧な性格とはとても言えないので事前準備だって充分かと言われたら自信を持って「はい」とは言えません。
だからこそ、仕事を回して現場に立って、失敗しながら成長させてほしいと私は思うのですが、お互いすれ違いが起きてなかなか噛み合わない日々が続きました。
インプロで直面する、足を踏み出せない自分
そんなモヤモヤした日々が続く中で、ひょんなことからインプロに出会いました。始めた頃は、ただただ楽しく、リフレッシュできる趣味くらいの気持ちで参加していました。しかし、少しずつのめり込んで、沼にハマりかけた頃、強烈な体験をしました。
制限もルールも設定も、全くもって何もない舞台で、自由に、好きなことをしてもいいという状況に立ったのです。
その時私は、一歩も動けませんでした。
舞台に上がることすらできず、袖でただ、震えていました。
インプロは初めてではありません。私を制限するものはないことを、よく理解していました。自分が何をしても、相手が受け取ってくれること。失敗すらも笑って楽しくなる場所であること。むしろ挑戦する姿が美しく、人を魅了するものであること。
わかっていたけど、誰の顔を気にしたわけではないけど、私は怖くて動けなかったのです。
その時に思い知りました。上司が仕事をくれないからできないと思っているけど、本当は自分が怖くてできないだけだと。環境のせいで私が埋もれていると思っているけど、環境に埋もれることを自分が選択しているのだと。私が失敗するのを怖がっているのだと。
その人がその人の情熱や魅力を存分に発揮して、力強く前に進んでいける世界を作りたい
大学時代の学びと会社員時代の経験から、私は2つのことを学びました。
人は、情熱や想いや才能があっても、環境や人との関係性の中で、挫かれたりなくなってしまうこと。そして、多少の環境や弱い自分に、挫かれない自分を持てることの強さです。
どちらもとても大切で、どちらも繊細なバランスの上で成り立ったりぐらついたりしています。自分が大きくぐらついた時、寄り添ってくれたり助けてくれる仲間がいることで進めることがあれば、逆にどんな困難な状況でも、自分の力で突破できる強さが物事を進めることもあります。
だから私は、他者との関係性と自分の強さの2軸から、それぞれの人が力を最大限発揮しながら、力強く進んでいくことができる人やチームを作っていくために、日々活動しています。
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